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福生グラフィティ #4 北村安忠さん ギフトセンターきたむら Souvenir Shop
ギフトセンターきたむら

お久しぶりです。
4回目となります福生グラフィティ。
今回は国道16号沿いにあります、
Souvenir Shop『ギフトセンターきたむら』のご主人、
北村安忠さんからお話を伺いました。

福生グラフィティ #1 兼田 雅章さん (Tokyohardy)
福生グラフィティ #2 若菜 貞雄さん (ピート) 神戸ステーキハウス
福生グラフィティ #3 エディさん EDDIE′S





ギフトセンターきたむら

「凄く欲しがった時代」

――福生でお店をはじめたきっかけを教えてください。

基地の人たちを対象にした商売がいいと思ってですね、
ここでお店をはじめました。
ですからお客さんっていうのは、
イングリッシュスピーキング、なんですよ。


――それはいつ頃のお話ですか?

昭和の30年。
実際にここ横田基地前の商売が成り立つようになったのは、
おそらく昭和25年が終わった頃からでしょう。
もっと古く言えば戦後、昭和20年から、
この辺りはそういうような環境、場所だったんですね。
お客さんはアメリカ人の兵隊さんが主だったわけですが、
日本で見るもの聞くものがなんでも珍しくてね、
凄く欲しがった時代。
ですから商売になった、ということですね。






ギフトセンターきたむら

「海岸通りだとか港界隈」

――キタムラさんは福生出身なんですか?

いえいえ、私は横浜の人間です。
横浜っていうところはね、
港を背景に発展した街なんです。
神戸と同じですねぇ。
そうでしょう?


――は、はい。

ということはね、
要するに貿易ですよ。
貿易っていっても今のような大きな貿易ではなくて、
外国人のお客さんが来る、
こういうような貿易。
ですから、横浜の伊勢佐木町、関内、それから元町、
海岸通りだとか港界隈、
全部外国人向けの商館がほとんどだった。
それからそこに小売の店舗も出来たということですね。
そういうところで私は育った。






ギフトセンターきたむら

「終戦になって21年に復員」

話が少し前後するんですけどね、
私は横浜の土地で生まれた横浜の人間。
ところが、
終戦の年、昭和20年に、
日本の陸軍に徴収されて、
戦地である北支那に連れて行かれたんです。
まあ義務でしたからねぇ。
徴収されて兵隊になりました。
それから昭和21年、
そのとき私は北支那に居たんです。
終戦になって21年に復員した。

戦前は世界の観光客。
いま大きな観光船があるでしょう?
クイーン・エリザベスとかそういうタイプ。
ああいう大きな船でもって世界の金持ちが、
世界一周旅行をしたんです。
上海だとか香港だとか神戸に泊まり、
横浜に来たんですよ。
そういう世界の金持ちが相手で、
それに注目してはじめたのが港の商売だったわけですね。
それが横浜であり神戸であったわけ。






ギフトセンターきたむら

で、私が日本に帰って来たときに、
世界の富豪の変わりにお客さんになってくれたのが、
何十万人という日本に来たアメリカの兵隊さん。
この人たちが世界の大富豪の代わりになったわけだよね。
それで私は「あ!これは面白い!」と、
昭和の22年かな、
終戦の翌年に横浜でこの商売に入った。
昔の人に使ってもらってね。
当時はまだ二十歳やそこらですからね、
なかなか自分でやるわけには行かないんですよねぇ。
そういうところに就職して働いていた。






ギフトセンターきたむら

「90%そうでした」

それから横浜での商売が下火になって、
戦後のはじめのような勢いがなくなったときに、
横須賀、佐世保、三沢、関西の呉だとか、
基地のあるところがいいなぁと思った。
それで横田での商売がはじまったわけ。
それが昭和30年。


――その頃のお客さんは基地の方ばかりですか?

90%そうでしたね。
基地関係の軍属ですとか、
兵隊さんの家族ですとか。






ギフトセンターきたむら

「街の中に染み込んでいる」

――北村さんから見て福生の魅力とは?

私が福生の魅力を感じたのは、
『兵隊さんと基地』。
基地と基地に関係した外国人ですよね。
当時それだけが魅力でした。
それで私は横浜から来たんだから。


――昔と今とでは街の雰囲気が全然違うのでしょうか?

それはね、全然違うということになると、
説明がいるんだけどもね。
要するに外人色というものが、
街の中に染み込んでいるというか。
そういうことでは、
今も昔も変わらないんじゃないんでしょうか。
細かく言えば、違うところはたくさんありますよ。
だけれども、大きく全体から見れば、
アメリカの兵隊さんや、
基地に関係のある人たちを中心にした外人色、
それが福生の戦後から今でもある歴史ですよね。


――そんなお客さんとのやりとりで、
なにか印象に残っている出来事などありますか?

特別に印象に残っているってことはないですよねぇ。
相手は外国人で当然英語ですから、
自分の商売の範囲内の、
必要な英語を勉強しなければいけない、
というのがまずひとつありましたね。
ただそういう風に思って、
片言の言葉でお客さんとやりとりする上では、
お客さんと商人という関係は変わらないですよ。
その中で特別なことと言ってもなかなか。
よく新聞や雑誌の取材で聞かれるんですよ。
「なにか特別なことはなかったですか?」って。
あるわけないですよ。
片一方は商人で、片一方はお客さんでしょう。






ギフトセンターきたむら

「はじめるより辞めるほうが難しい」

――商品は外国人に喜ばれそうなものが多いですね。

最初のスタートのときは、
純粋な日本商品ばかりを扱っていました。
それがだんだん月日が経つにつれ、
時代の流れに従って、
商品の内容が変わってきた。
それはどこの商売でも同じことだと思います。


――心なしか以前伺ったときよりも、
商品の数が減っている気がするのですが…

見てわかるとおり、みんな売って。
私は90近いんです。今88歳。
あと一ヶ月で89歳になっちゃう。
そういう人間だし、
うちの奥さんも85歳になるところ。
この80半ば過ぎた人間にね、
同じような商売をやらせても、
これは無理ということは言えないけども、
全てに関して、いいとは言えませんね。
だからここら辺で、
私はお店を辞めようと思っている。

こういう商売っていうのは、
これはちょっと話が違うんだけれども、
はじめるより辞めるほうが難しい。
いまがそのときですね。






ギフトセンターきたむら

「若さとセンスとやる気」

――今後の福生16号について。

外人色が多いということで、
「あそこに行くと珍しいよ」
「あそこに行くと変わったものがあるよ」
「あそこに行くと雰囲気が違うよ」
そういって来てくれる日本人のお客さんが、
一時は非常に多かった。
ところがいまはどこの商店街でも、
シャッターを下ろしているところが多いでしょう。
ここだけの話ではありませんよ。
そういうようなご時勢、
いまはその時ですね。

うちは最初、ここと隣の店舗と、一軒だったんです。
だから今よりも倍以上の広さがあった。
当時は私も若かくて馬力がありましたからね。
それからだんだん暇になってきて、
半分にしようと言って、半分貸した。
10年以上に経ちますけどね、
その間テナントを募集したことがなかった。
どんどん後から後から来て。
でも今回はじめてテナントの募集をしている。
まぁ私のところだけかもしれないけど、
横田と16号っていうのは、
そういった環境になって来ていると思います。






ギフトセンターきたむら

でもね、やり方によって、
悪いところばかりではないんです。
結構この辺でも一生懸命やって、
商売になっているところもあるようです。
それにはやっぱり、
まず『若さ』があって『センス』がある。
そして『やる気』があると、
そういうことでないといけないですね。
だから我々みたいに、年がお仕舞いになって、
とても労働には耐えられないとなったときは、
やはり辞めるしかない。
これは事実ですよ。
どこの環境でも同じです。






ギフトセンターきたむら

――ちなみに創業当時のお写真などお持ちでしょうか?

いまここにはないですねぇ。
ダンボールいっぱいに資料があるんだけど、
それを整理しなきゃいけない状態。
今の商店街の役員さん、
あそこの元自転車屋さんの中村さん
私あの人のお父さんの時代から知ってるわけですよね。
彼からもよく言われているんだ、
当時の写真を出してくれって。
半分整理しかけているんですけどね、
まだ半分、私が思うように整理出来てないの。






ギフトセンターきたむら

――お話の途中に米軍ハウスが出てきましたが、
もしかして北村さんはハウスにお住まいなのですか?

米軍ハウスをリフォームして住んでいます。
とても使い勝手がよく出来てる。
10年前、まだ持つというんでリフォームしたんですよ。
夫婦二人が住むだけの便利な間取り、
そういう生活をしています。


――いまでは貴重ですよね。

木造で古いですからね。
でも割合長持ちするんですよ。
木造だと思ってバカにすることはないと思う。
ただ、地震やなんかでどういう風になるかわからない。
けれど割合地震やなんかに強い面もあるんじゃないかな。
骨組みはしっかりしている、でも屋根は軽い。
これは非常に必要なことなんですよ。
電車だってそうでしょう?
車両をどんどん軽量化していくんだ。
同じですよ。
だから必ずしもコンクリがいいと、私は言えない。
まぁそれは余計な話ですから(笑)。





ギフトセンターきたむら

大変お忙しいところ、
貴重なお話を聞かせてくださった北村さん、
本当にどうもありがとうございました。

実はブログをはじめた当初、
「このお店は紹介しなければっ!ふがっ!」と思い、
鼻息荒めで突撃を試みたのですが、
僕の怪しすぎる挙動からか、
そのときはソフトにお断りされてしまいました。
あれから月日が流れ早7年とか8年。
光栄にも取材の許可をいただき
こうしてたくさんのお話を聞くことが出来て、
とっても嬉しかったです。
取材が出来るようお力添えをしてくださった、
夕陽のTシャツキシローさん、
GoodKing'sのナツイさんに感謝であります。





ギフトセンターきたむら

また今回の取材は、
軽トラTシャツ』でお世話になりました、
HOT FUDGE、ハシモトさんのブログ記事を拝見し、
再チャレンジしようと思いました。

■ハシモトさんのブログ記事
Souvenir Shop
http://hotorange.tumblr.com/post/59975496437/16-souvenir-shop
http://hotorange.tumblr.com/post/61674156621/souvenir-shop

ハシモトさんも大プッシュの可愛らしいJewelryたち。
いまならまだ入手可能ですよ。
(僕は大仏のミニチュアペンダントトップを購入しますた)





ギフトセンターきたむら

エキゾチックジャパンなアイテムが揃う、
フェンス越しのSouvenir Shop、
キタムラさん。
来福の際はぜひともお立ち寄りを〜。

【お店】『ギフトセンターきたむら』
【住所】東京都福生市福生2172
【電話】042-551-1133
【定休日】不定期(ご主人の体調により)





今日もありがとうございました。
緑の大仏

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| 福生グラフィティ | 15:46 | comments(1) |trackbacks(0) | ↑PAGE TOP |
福生グラフィティ #3 エディさん EDDIE′S
EDDIE′S エディーさん

見切り発車でスタートしたはいいものも、
すっかり更新が途絶えていた『福生グラフィティ』。

福生グラフィティ #1 兼田 雅章さん (Tokyohardy)
福生グラフィティ #2 若菜 貞雄さん (ピート) 神戸ステーキハウス

そろそろ誰かにお話を伺いたいな、
ということで福生駅近くの繁華街(旧赤線)にあります、
ディスコのちクラブ、
『EDDIE′S』のエディーさんと、
真昼間にお会いしてきました。





EDDIE′S エディーさん

「福生ディスコの先駆者エディーさん」

――お忙しいところすみません。
本日はよろしくお願い致します。

『ガガガ!!ドゥルルル!!!』(機械音)

ああ。よろしくね。
何を聞きたいのかな?
俺の歴史?俺の歴史はありふれているよ。


――ま、まずはお店の歴史を伺えたらと…

歴史的には39年前。
あんたらが子供の頃。
ちょうどバブルの手前だよ。
高度成長期時代だから結構景気は良かった。
その頃は外に人が並んじゃうくらい賑わってたの。


――行列が出来るディスコですか。

この辺は田舎でしょ。
こういう田舎に物珍しいというかね。
まさかそんなディスコみたいなものを、
やらないと思っていたんじゃないの?


――エディースが出来る前、
この辺にディスコっていうのはなかったんですか?

ないないない。
あったのは外人バー。GIバー。
俺もGIバーをやってたんだよ。
GIバーから少しづつ改良してね、
それでやりだしたのが今のお店なんだよ。






EDDIE′S エディーさん

「インターナショナル的なね」

――エディーズをはじめたきっかけは?

俺の主旨は若者の、
ヤングタウンにするとかさ、
せっかく外国人がいるからインターナショナル的なね。
そういうのが最初の発想なのよ。


――ちなみにエディーさんは福生出身なんですか?

俺はもともと新小岩だったの。
親父が高島屋とかああいうデパートに出入りしていた、
商人だったんだよ。
それがうまく行かなくなって、
疎開でこっちに来た。
ほら、当時は戦争中だったから。
俺が5、6歳のときだったかな。
ずっとそれからこっちにいるんだけど、
俺はバンドやってたからさ。
20代から30代のときはほとんどいなかった。
大学も法政だから。
板橋のほうだったからね。




福生グラフィティ #1 兼田 雅章 (Tokyohardy) slide
第一回福生グラフティにご登場いただいたhardyさん提供のお写真

でも帰ってきてね。
親がこの辺で『JUN』っていうスナックをやっててさ。
結構、おじい、おばあ集めてくるような店だったんだけど、
そこを俺が改造して、
最初そこにね、DJ入れたりさ、
ちょっとディスコ紛いみたいなことをやってたんだよね。
そんときにもう外人が結構出入りしてたからさ。






EDDIE′S エディーさん

「ラララ〜ララララってやつ」

――エディーズは昔からこんな雰囲気だったんですか?

ここは昔半分くらいしかなかったんだよ。
そこに柱が二つあるでしょ。
こっち側はね、駐車場だったの。



――お店をはじめた当時はどんな音楽を流していたんですか?

ソールトレン。
俺たちが最初バンドやってたときはね、
ポップスだから。
あれはなんだっけな。
ラララ〜ララララってやつ。


――わ、わかりません。。







あ!プラターズ!
で、そのあとがね、








コーラスグループではスタイリスティック。
それからビートルズがあって、
マイケルジャクソンがあって。

僕らの時代はフランクシナトラとかさ、
エディ・フィッシャーとかね。
トニー・ベネット。
ポップスよ。
その時代にプラターズっていうのが、
いいコーラスだったんだよ。
Smoke Gets In Your Eyes。煙が目にしみるとかね。


――そのような音楽をお店で流していたんですね。

いや、お店をやったのは、
それを聴いていたときから10なん年後だからさ。
もうその時代は、なんだっけ、ほら。
踊りが激しい人がいるじゃんか。


――お、踊りが激しい人ですか…

まぁ、マイケルジャクソンも流行っていたけどね、
その人が、ほらなんだっけ。
熊みたいな格好して。
エディーマフィーじゃない。なんだっけ。
あれが一番最高に流行っていたな。
あんときがピークだったよ。
20年くらい前。


――家に帰って調べてみます(わかりませんでした)。
ちなみに今はヒップホップが主流なんですか?

今じゃーもう、
ちょっとわけがわかんないねぇ。
日本人はやっぱりメロディック的なものとか、
テンポがいいのがいいよな。
ちょっといまは大人的な感じが少なくなったかな。
昔のあの大人の雰囲気がよかったんだよ。






EDDIE′S エディーさん

――エディースといえば、
僕にとってはハマチューなんですが…

おおーおお!はまちゃん!
どうして知ってるの?






福生のビール小屋 2010
振り向きざま親指を突き立てるハマチュー(向かって右)

――ハマチューは高校の同級生なんです。

はまちゃんが居たときあたりが、
一番ヒップホップが流行っていたときじゃないかな。


――そうなんですね。
ところでエディさんはなんでエディって呼ばれているんですか?

俺がバンドをやっていたときのニックネーム。
うちは親が半分ハワイだからさ。
俺はクォーターだな。
家族はみんなハワイにいるしね。
妹の旦那さんもハワイの人で。






EDDIE′S エディーさん

――あ、エディーさん。
お願いしていた昔のお写真を拝見したいのですが?

昔のが見つからなくてね。





EDDIE′S エディーさん

5、6年前のしかないんだよ。
みんなうちのやつが捨てちゃったみたいなんだよ。






EDDIE′S エディーさん

うちはハワイに親戚がいるから、
結構ハワイからもお店に来てくれるの。
妹が宣伝してくれているのかわからないんだけど。






EDDIE′S エディーさん

――この集合写真は?

それはTDYっていうんだけど。
そういう連中が来て記念に撮っていったの。
いい人たちだよ。飛行機を直す人。






EDDIE′S エディーさん

――最後にエディーさんの写真を撮りたいのですが…

ああ。いいよ。
髪がボサボサだから。
ちょっと待っててね。






EDDIE′S エディーさん

ところでこれ、何に載るんだい?
雑誌かなにか?


――いえ。ごめんなさい。
個人でやっているブログ、インターネットです。

ああ、そうかそうか。
大いに宣伝してよ。
よろしくね。


――エディーさん最後になにか一言お願い出来ますか?

やっぱりね。
音楽はいいよ。






EDDIE′S エディーさん

白髪のダンディズム。エディーさん。
貴重なお話をありがとうございました。

お店をやっていて良かったことは、
「たくさんの仲間と出会えたこと」
とおっしゃっていたエディーさん。
そんな仲間のお一人なのか。
タレントのビビる大木さんもブログで『EDDIE′S』を紹介しております。





1586bd03cc.JPG

ちなみにお話の途中の中でチラっと登場した、
エディーさんがスナックにDJを入れて、
ディスコっぽいお店にしたという『JUN』は、
小説家、山田詠美さんが頻繁に通っていたり、
NHKで放送されていた、
織田裕二の初主演ドラマ『19歳』や、
(エディーさんもバーテンダー役で出演)
映画『限りなく透明に近いブルー』にも登場しているそう。




EDDIE′S エディーさん

福生カルチャーの礎を築き、
いまなお現役でご活躍されているエディーさんのお店、
『DISCO EDDI'S』。
またワーっと楽しんでみたいです。

日本のCLUBでは味わうことの出来ない雰囲気を体感したいなら、
福生DISCO EDDIE’Sへ。


★取材協力
福生ガールのEllieさん!
どうもありがとうございました!

【お店】『DISCO EDDI'S』
【住所】東京都福生市福生876-1
【TEL】042-552-8002
【地図】

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福生グラフィティ #2 若菜 貞雄さん (ピート) 神戸ステーキハウス
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福生グラフィティ #2 若菜 貞雄 (ピート) 神戸ステーキハウス

しっかりとしたコンセプトも定まらぬまま、
見切り発車でスタートした福生グラフィティ
第二回目は言わずと知れた東京・福生の老舗ステーキハウス、
「神戸ステーキハウス」のオーナーである、
若菜貞雄さんからお話を伺いました。

上のお写真はオーナー貞雄さんと、
僕が普段お世話になりまくっている幼き頃の智さん(かわいい)。
ちなみにこの頃、外国人は日本人の名前が言い辛いということで、
お店のオーナーをニックネームで呼んでいたそうで、
貞雄さんは「ピート」と呼ばれていたそう。
なお、日本人からは、
「ピーちゃん」と呼ばれていたそうです(かわいい)。





福生グラフィティ #2 若菜 貞雄 (ピート) 神戸ステーキハウス

「一坪くらいの小さいコーヒーショップ」

――福生に訪れたきっかけを教えてください。

横田基地が完成していない、
この辺がまだ畑だった頃よく遊びに来ていたんだよね。
その頃立川で外国人相手のバーテンダーをやってたから。

一番最初に私が勤めたのは西立川で、
そのときはまだ19歳。
立川の職業安定所で紹介されて、
西立川の基地にある自動車部隊、
モータープールってところに行ったの。
そこに一坪くらいの小さいコーヒーショップがあってね。

昔、基地の仕事はみんな政府雇用だったから、
給料が凄く良かったのよ。
でもしばらくしたら直接雇用っていって、
収入を得ているところは、
自分たちで給料を払いなさいってことになってね。
小さなコーヒーショップではとても採算がとれないってことで、
閉めることになっちゃったんだけど。
そこで半年ぐらい働いていたかな。


若菜 智さん:日本にまだコカコーラがないとき、
コカコーラボーイっていうのをやっていたんでしょ?

そうそう。コカコーラのほかにも、
クッキーやアップルパイを売ったり。
凄く美味しいかったんですよ。向こうの味だからね。
そこで半年くらい働いて、
それから次の仕事を探そうと思ったときに、
なまじ英語が少しできるものだから…






福生グラフィティ #2 若菜 貞雄 (ピート) 神戸ステーキハウス

「若菜、これでスペル合ってるか?」

――え?当時すでに英語が話せたんですか?

うん。まぁ高校といったって、
一学期くらいしかい行ってないんだけど。
ほら戦争中だったから。
学校なんて行ったって勉強なんかしやしない。
爆弾が落っこちるところで勉強してたんだから。
でも校長が変わってる人でねぇ。
「いちいち空襲警報があるたびに、
 非難してるような弱虫じゃしょうがないぞっ!」
なんて言ってズシンズシン爆弾が破裂してる中、
勉強させられたんだよ。
それが怖くてねぇ。


――ええっ!?その環境で英語をマスターしたのですか!?

ほかの勉強は出来なかったのだけど、
英語だけはなんでか知らないけどよく出来たんだよね。
単語なんかすぐに覚えちゃう。
英語はクラスでも1、2番の成績だったなぁ。
「若菜、これでスペル合ってるか?」
なんて先生が俺に聞くくらいなんだから(笑)。
あとは学校があった八王子駅なんかで、
外国人から10円とか20円でチョコレートを買ったり、
そういうことばかりしてたから、
片言づつ自然に覚えていったね。






福生グラフィティ #2 若菜 貞雄 (ピート) 神戸ステーキハウス

「自分もバーをやってみたくなっちゃって」

――その英語力が次の仕事のへ繋がったのですか?

そう。モータープールのコーヒーショップを辞めてから、
立川基地にあったNCOクラブで2年くらい働いて、
それから立川にあった個人が経営している、
外人バーなんかをあちこち転々としてたんだけど。
あまりいいバーがなくてねぇ。
そのとき立川に「チャーリーステーキハウス」ってのがあったんだけど、
そこのオーナーが僕が働いていたバーによく来ていて、
僕を凄く大事にしてくれていたの。
当時は英語が出来る人間なんてあまりいなかったからね。
で、バーを転々としていたときに、
「なんであいつは俺のところに来ないんだ?」
ってチャリーさんが言っていることを友人から聞いてね、
早速チャーリーステーキハウスに電話をかけたのよ。
そしたら喜んでピザご馳走してくれたりして。
そのときピザっていうのは凄いうまいもんだなぁって思ったね。
チャーリーステーキハウスのピザは、
あの辺じゃ一番うまかったんだから。


――で、そこでスカウトされたと。

「うち来て働け」って言われてね。
そのとき福生にも支店があったんだけど、
そこで何年か働いているうちに、
お店のことを任されるようになったりして。

マネージャーになってから、
みんなを連れてよく赤線なんかに行ったんだけど、
そこがみんな繁盛しててさぁ。
そんなの見たら今度は自分もバーをやってみたくなっちゃって、
それで銀座通りに『バー純愛』っていうニッカバーをつくったの。
そしたらおかげさまで繁盛してくれてねぇ。






福生グラフィティ #2 若菜 貞雄 (ピート) 神戸ステーキハウス

「赤線でもやってみたい」

それから3年くらいしたときにベトナム戦争がはじまって、
赤線に数店舗空きが出ていたから、
それでこんどは赤線でもやってみたいってことで、
『ビーバービー』っていう外人バーもはじめたの。

そのときベトナム戦争の影響で、
バンバン外国人がお金を使い出したから、
こっちのほうがいいなぁと思って、
『バー純愛』の方は、
福生にあった映画館で技師として働いてた弟に譲って…

※その昔福生には、
テアトル福生とニュー福生っていう映画館が2つあったそうです。


ベトナム戦争がはじまって赤線が盛ったときは凄かったねぇ。
兵隊なんかは基地の中に泊まりっきりで、
一所懸命戦争やらされてたから、
外に出たときは赤線で一晩中飲み明かしたりしてたんだわ。
一晩で10万も使ってくれたんだからねぇ。
当時でもって10万。相当な金だよ。
今の2、30万円くらいの価値じゃないかねぇ。






福生グラフィティ #2 若菜 貞雄 (ピート) 神戸ステーキハウス

「フェンス越しでチーズバーガー10個」

赤線が凄い繁盛してたから、
『バーボーナス』っていう2軒目もやってたんだけど、
そのうちにベトナム戦争が終わってね。
どんどん兵隊さんが引き上げちゃって、
そのとき「もうこの商売はこの辺でやめたほうがいい」って判断して、
それでここに来たの。

ここでお店をはじめた頃、
この辺に住んでいるのは外国人ばかりだったから、
「あんなところではじめてどうするのよ?」なんてよく言われたんだけど、
でも当時はこういうレストランがこの辺になかったから、
外国人がみーんな来てくれて(笑)。


若菜 智さん:ファミレスが出来る前だからね。

まーいっぱいよ。

若菜 智さん:そのとき基地の中から注文が来たりしたんでしょ?

そうそう。
昔はこの道路(国道16号)がこんなに広くなかったから、
フェンス越しでやりとりしてたのよ。
「チーズバーガー10個作ってくれ」なんていって。






福生グラフィティ #2 若菜 貞雄 (ピート) 神戸ステーキハウス

「自分でもやりたくなったの」

――フェンス越しのチーズバーガー物語。
これだけで一本映画が撮れそうですねぇ。
ちなみに和牛ステーキはその頃から?

そうだね。
バーやっていたから外国人の友達が結構いたんだけど、
その友達が基地の中のレストランに連れて行ってくれたの。
で、将校クラブでステーキをご馳走してくれたんだけど、
そのステーキがあまり美味しくなくてねぇ。肉が硬くて。

それでもってこんどは俺が、
チャリーステーキってところで働きはじめて、
そこでステーキを食べたら…
チャリーステーキのほうが美味いんだよ。
そのとき兵隊が夢中になって食べに来ているのを見て、
自分でもやりたくなったの。
アメリカ肉は美味しくないから、
これを和牛でやったら絶対流行るという確信があってね。






福生グラフィティ #2 若菜 貞雄 (ピート) 神戸ステーキハウス

若菜さんにとって、
外国の異文化を直に学べる学校の様な存在であった福生。
そこで巻き起こった出来事を、
他にもい〜っぱい語っていただいたのですが…
まとめ下手で…すみません…(汗)。





福生グラフィティ #2 若菜 貞雄 (ピート) 神戸ステーキハウス

創業1972年。
様々な物語が詰まっている、
『神戸ステーキハウス』。
現在では4代続いてご来店されているご家族や、
「日本に行ったら神戸ステーキハウスだYO!」
なんつって海外からご来店されるお客様もいるのだとか(凄)。

若菜さん自らが厳選した上質の黒毛和牛と自家製手作りピザ。
みなさまもぜひ一度、ご堪能くださいませ。
(虜になること確実です)




福生グラフィティ #2 若菜 貞雄 (ピート) 神戸ステーキハウス

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福生市から感謝状を頂きました
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